柴田翔

話題の佐川氏が東大の学生時代に芥川龍之介高橋和巳柴田翔を愛読していたということを知った。

柴田翔は、実は私も高校のときに読んだ。話の内容はあまりよく覚えていない。ただ、大学生たちが味わった一種の喪失感のようなものが書かれていて、大学に入る前にそんな喪失感について考えてしまうのも不思議なものだと思いつつ、でも大学に入ったからといって何かすごいことがあると思えるくらいに天真爛漫でもなかったため、「まあ、そんなもんなのか」などとも思った。

ただ、ちょっと気になって調べたら、こんな記事を発見。

www.sankei.com

一読してなるほどと思う。この小説は「集団主義への疑問や違和感」を主題としていた。私自身、集団主義が嫌だった。中学あたりから厳しくなった管理教育、平準主義は、嫌だった。そのまま公立の高校に行ったのだが、数学などは勝手に独学で学び、国語も図書館で本を借りてそれを読みふけることで勉強した。

なんでそこまで集団主義が嫌だったのか、今となってはよくわからない。ただ、大学に入ってからも、その傾向は続いた。集団主義といっても要するにテニスサークルに入って女子と遊ぶということなんだが、そういう軽い集団主義は嫌だった。かといって、政治運動らしきことをしている集団にも、まったく関心を持てなかった。そもそもなんでそんなことやっているのか、よくわからなかった。

集団主義の恐怖を考えるようになったのは、ミラン・クンデラの「不滅」や「存在の耐えられない軽さ」を読んだ頃だった。

あと、この記事には

イデオロギーを取り払われた生身の人間の弱さが端正な文体で描かれる」

とあるのだけれど、これについても、今の自分が考えていることなので、もしかしたらその発端は、この小説を読んだことだったのかもしれない。ただ、「弱さ」を自分のこととして考えることができていたかというと、そうでもないと思う。イデオロギーにとらわれて声高に主張する人たちの空虚さを批判することはあっても、では自分は、イデオロギー無しで本当に生きられるのか、何を信じて生きるというのか、信念をイデオロギー化させないなどということが本当に可能なのか。

などということを考えた。佐川氏は、柴田翔を読んで何を考えたか。気になる。