高校時代の読書

高校時代、現国の先生がメルロー=ポンティで卒論書いたということもあって、ときどき哲学の話らしいことをしていたように思う。中村雄二郎の本「哲学の現在」が、多分最初に読んだ哲学の本で、そこから西田幾多郎のことを知り、フランス哲学のことを知るようになった。西田の「善の研究」は、高3のときがんばって通読した。そこで純粋経験についてとにかく考えたのだが、いまだに経験を離れた言葉には今ひとつピンとこないのも、もしかしたらこの時代の読書の影響があるかもしれない。

 

あとは、高校時代はZ会をやっていて、そこで柄谷行人の文章を読み、その「形式的方法」によって人生上の難問(自己と他者の問題など)を論じてしまう鮮やかさに魅了され、「内省と遡行」を図書館で借りて熟読したことを思い出す。講談社学術文庫で読んだのだが、その巻末に、廣松渉の本の紹介があって、それで廣松を読むようにもなった。もちろん読んだからといって何がわかったかは怪しいが、それでも、哲学書を読みつつ考えるということの始まりは、この高校時代の読書にある。それなくしては今の自分はない。