なぜかまた山上徹也について論じている。

英語で書いて、頑張って雑誌に投稿しているのだが、そうやっていると、日本語で書くことが何になるのか、ますますよくわからなくなる。15年前、あるいは10年前、自分がまだ駆け出しだったころは、いわゆる大手メディアとは別の、そこからずれたところだからこそ、思い切ったことが書けたし、読んでくれる人もいたように思うが、だんだんと、そのようなズレた媒体にも大手メディアで書くような人が増えてきて、自分のようなマイナーな人間の居場所がなくなってきた。英語で書こうと決意して、気づいたら7年くらい経ったが、あのとき決意して本当に良かった。このままだと、日本語の媒体からはお呼びがかからなくなるだろうし、書いても無視されるのだろう。英語で書くことで、そんなストレスフルな状況から逃げ出すことが可能になる。

それでも、エレキングという音楽系の媒体からは、ときどき原稿依頼がある。ありがたいことだ。最近は、山上徹也について書いてくれという依頼があった。例のユーチューブ番組をどなたかが見てくれたらしく、それが面白かったと聞いたということで、それで依頼があったわけだ。

柴田翔

話題の佐川氏が東大の学生時代に芥川龍之介高橋和巳柴田翔を愛読していたということを知った。

柴田翔は、実は私も高校のときに読んだ。話の内容はあまりよく覚えていない。ただ、大学生たちが味わった一種の喪失感のようなものが書かれていて、大学に入る前にそんな喪失感について考えてしまうのも不思議なものだと思いつつ、でも大学に入ったからといって何かすごいことがあると思えるくらいに天真爛漫でもなかったため、「まあ、そんなもんなのか」などとも思った。

ただ、ちょっと気になって調べたら、こんな記事を発見。

www.sankei.com

一読してなるほどと思う。この小説は「集団主義への疑問や違和感」を主題としていた。私自身、集団主義が嫌だった。中学あたりから厳しくなった管理教育、平準主義は、嫌だった。そのまま公立の高校に行ったのだが、数学などは勝手に独学で学び、国語も図書館で本を借りてそれを読みふけることで勉強した。

なんでそこまで集団主義が嫌だったのか、今となってはよくわからない。ただ、大学に入ってからも、その傾向は続いた。集団主義といっても要するにテニスサークルに入って女子と遊ぶということなんだが、そういう軽い集団主義は嫌だった。かといって、政治運動らしきことをしている集団にも、まったく関心を持てなかった。そもそもなんでそんなことやっているのか、よくわからなかった。

集団主義の恐怖を考えるようになったのは、ミラン・クンデラの「不滅」や「存在の耐えられない軽さ」を読んだ頃だった。

あと、この記事には

イデオロギーを取り払われた生身の人間の弱さが端正な文体で描かれる」

とあるのだけれど、これについても、今の自分が考えていることなので、もしかしたらその発端は、この小説を読んだことだったのかもしれない。ただ、「弱さ」を自分のこととして考えることができていたかというと、そうでもないと思う。イデオロギーにとらわれて声高に主張する人たちの空虚さを批判することはあっても、では自分は、イデオロギー無しで本当に生きられるのか、何を信じて生きるというのか、信念をイデオロギー化させないなどということが本当に可能なのか。

などということを考えた。佐川氏は、柴田翔を読んで何を考えたか。気になる。

高校時代の読書

高校時代、現国の先生がメルロー=ポンティで卒論書いたということもあって、ときどき哲学の話らしいことをしていたように思う。中村雄二郎の本「哲学の現在」が、多分最初に読んだ哲学の本で、そこから西田幾多郎のことを知り、フランス哲学のことを知るようになった。西田の「善の研究」は、高3のときがんばって通読した。そこで純粋経験についてとにかく考えたのだが、いまだに経験を離れた言葉には今ひとつピンとこないのも、もしかしたらこの時代の読書の影響があるかもしれない。

 

あとは、高校時代はZ会をやっていて、そこで柄谷行人の文章を読み、その「形式的方法」によって人生上の難問(自己と他者の問題など)を論じてしまう鮮やかさに魅了され、「内省と遡行」を図書館で借りて熟読したことを思い出す。講談社学術文庫で読んだのだが、その巻末に、廣松渉の本の紹介があって、それで廣松を読むようにもなった。もちろん読んだからといって何がわかったかは怪しいが、それでも、哲学書を読みつつ考えるということの始まりは、この高校時代の読書にある。それなくしては今の自分はない。

2016年の阪急電車沿線の出来事

10月になって思い出したこと。

2016年10月、最寄り駅の階段を登っていたら、女の人がホームから駆け下りてきた。その人は駅員に、「電車に人が巻き込まれたよ」と慌てた声で告げている。何のことか一瞬わからなかったのだが、それでも数秒後、人身事故が起きたことに気づいた。ホームまで歩いていくと、電車が停まっていて、しかも停まった電車の扉付近に誰かが倒れているのがみえた。茶色のウィンドブレーカー。髪の長い男。若い。

 「死んでいる」と思った。

 様々な人が途方にくれている。ホームでは皆が呆然としていて、改札周辺では駅員が質問攻めにあっていて、駅周辺では、様々な人が携帯電話で話したり、メールを送ったり、タクシー待ちの列に並んだりしている。

 人が一人、電車に飛び込む。電車が停止する。線路がしばらく使えなくなるので、他の電車も停まる。電車を使うことのできなくなった人たちは電車以外の交通手段をもとめて右往左往し、右往左往する人で満たされた街は次第にどことなく落ち着きを失い、騒然としていく。救急車が来て、パトカーが来て、なぜか消防自動車も来る。サイレンが街の騒々しさをいっそう増幅させていく。

 かくして日常が掻き乱される。人はこの掻き乱された日常のなかで、自分の都合が狂わされたことにあたふたする。それでも、この日常の掻き乱しが一人の人のいのちが失われたことにより引き起こされたことへと思いを馳せる人はそれほど多くはないのだろう。事故をおこすのはやめてくれと思うことはあっても、事故を起こしたその誰かのことを、その誰かが、事故を起こすにいたる生き様のようなことを、考える人はおそらくはいない。自分の知らない誰かが電車に飛び込んだからといって、それが自分と何の関係があるというのか。「彼氏とのデートの予定が狂った!」と慌てふためくあなたのほうがたぶん正しいのだろう。 

 その日は大阪市内で用事があったので電車に乗りたかった。それで駅員に「いつになったら動くのか」と聞いたが、「復旧がいつになるかはわからない」と言われ、しかたなく自転車で別の路線の駅まで移動し、市内まで行くことにした。

 そのとき私も、「よりにもよってこんな日に飛び込まないでほしい」と、ただ自分の都合しか考えていなかった。つまり、自分がこの日行かねばならないところに行けなくなるかもしれないことに不安になり、どうしたら行くことができるか、それだけを必死で考えていた。 

 ただ、私はそのとき、自分のなかの何かが「挫かれた」と思った。「挫く」を辞書で調べると、それは「勢いをそぐ」「弱らせる」ことを意味する言葉と書かれている。つまり私は、人身事故の現場近くで、自分のなかの何かが勢いをそがれ、弱っていくのを感じた。それは多分、生きていこうという気持ちである。生への意欲である。さらにいうと、それは気持ちや意欲を生じさせてくれる気分であり、何があろうと生きていくことを支え、促してくれる、生命力のようなものである。事故の現場にいると、生命力が挫かれてしまう。生きていこうという思いを挫く力が、事故現場に生じている。

 この場にいてはいけない。そう思ったからこそ私はすぐに自転車に乗ったのだったが、移動中も、私はいまだに事故が生じさせた一種の磁場のようなものにとらわれていたのだろう。

 すぐに離れたほうがいい。そう考えていたように思うし、あるいは、倒れた姿を見るのが怖かっただけかもしれない。見るだけの勇気がなかった。それは、自分がどん底にいることを直視したくなかったからかもしれない。どん底の自覚があれば、何か別の反応ができたはず。

この世の地獄感


 そういえば、二〇一七年の四月、市役所で国民健康保険への加入手続きをしていたとき、七〇歳くらいの男が、大声でわめき散らしていた。年金だろうか役所で手続きをすれば、何らかのかたちで得ることのできるはずの金が支給されていない、そのことに怒っているようだ。だが、男の発する声は、誰か具体的な人、たとえば窓口にいる市役所の職員に、面と向かって向けられているのではない。待合室のベンチに腰掛けたまま男はわめいている。その視線は、この人が頭のなかにこしらえあげた敵のような存在に向けられているようで、だから眼力は強いが何かを受けとめる余力はそこになく、ゆえに空虚である。たしかに、年金が段階的にカットされていく−−先日の報道では、七五歳にならないと支給されなくなると書かれていた−−と言われている。ということは、この人は、以前であればもらえると言われ、もらえると信じていた金が知らぬ間にもらえなくなって、それに対して憤り、市役所に乗り込んで、ベンチに座って喚き散らすという孤独きわまりなき抗議行動に打って出たのだと考えることもできる。