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公共空間の後で

 

 誰に対しても開かれていて様々に現れることを許容する公共空間があることで、人は私的存在という状態を脱し、まっとうな人間になることができるという見解がある。それはつまり、他人とのかかわりを断ち切り引きこもっている状態という意味での私的存在の外部に開かれた公共空間を創出することこそが、まっとうな人間らしい生活の条件である、という見解である。公共空間の私有化が人の交流を阻み孤立と隔離を促すという主張の前提にあるのも、この見解である。アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『帝国』では、次のように述べられている。「都市の景観は、公共の広場や人びとの公共空間での出会いを重視してきた近代的なあり方から、ショッピングモールやフリーウェイ、そして専用ゲートつきのコミュニティなどからなる閉ざされた空間へと移り変わりつつある」(二四四頁)。この見解において、公共空間は、孤立した状態という問題に対する一つの解決として展望されている。全面的に孤立しないで生きることを可能にする、解決のうちの一つである。孤立しないでいるためにも、公共空間が要請される、ということである。私が問うてみたいのは、そもそも、孤立せず、見放されないで生きていくための条件として、公共空間なるものが適切な解決なのか、ということである。

 公共空間を無条件に想定するのではなく、まずは、そもそも全面的に孤立しないでいるとはどのようなことであるかを問うほうがいいのではないか。それは、人が自分ではない他の人間たちとのかかわりのなかで生きることである。自分ならざるものとの複数的な共存のなかで生きることである。

 この前提のもとで、こう問うてみたい。公共空間は、複数的な共存の必須条件なのか。公共空間があれば、複数的な共存のなかで人が生きていることができるようになるのか。そもそも、誰に対しても開かれていて様々に現れることを許容する空間とかかわらないかぎり、人は複数的な共存の状態を生きていないのか。現れること、見られること、明るみに出されること。こうならないかぎり、複数的な共存は、成立しないのか。

 

たとえ現れることのできない境遇であっても、全面的に見放されないでいることの可能な空間。

公共的な空間における自殺

公共的な空間で決行される自殺行為は、多くの人の生活を混乱させ、街そのものをも混乱させるというだけでない。私はどことなく、時間そのものが中断されているようにも感じつつ、日常的に経験される時間とは別の時間が発生しているようにも感じた。

  時間が混乱するのは、異質な時間がそこで衝突するからであると考えてみる。まずは、電車が円滑に作動しているときの時間がある。電車をも一部分として組み入れることで成り立っている、日常的な生活の時間である。

 鉄道自殺は、この時間を中断する。日常的な時間の中断は、そこに空隙が開かれた状態と捉えることもできるだろうが、それだけだろうか。自殺において生じる時間というものもあるのではないか。

 

A 機械化された時空間、鉄道、自動車。高速道路。

B 身体の時空間(生身の時空間)

人身事故の時間の歪み

 鉄道の人身事故の現場に、たまたま居合わせたことがある。当時の私が利用していた最寄り駅での出来事であった。そこに停車しない急行に、人が巻き込まれたため、電車がストップした。

 改札口を通るとき、ホームから駆け下りてきた六〇代くらいの女性が駅員に「上で、人が巻き込まれた」と話しているのを耳にした瞬間、せいぜいのところ閉まるドアに挟まれた程度の事故だろうと思ったのだが、本当に人身事故であった。事故が起きたということの現実を本当のこととして、自分にとっての現実感として受けとめるのにしばらく時間がかかった。
 私はそのとき用事があって電車に乗りたかったのだが、しばらく運行を見合わせるということで、仕方なくタクシーをつかまえようとしたもののタクシー乗り場には行列ができていて、別の駅まで自転車で行ってそこでタクシーをつかまえようとしてもやはり乗り場は長蛇の列で、また別の駅まで行ったら今度は駅のホームの周囲に人だかりができていて多くの人が携帯電話を片手に口々に何かを話しているのを目にした。
 駅だけでなく、街が騒然としていた。公共的な空間で決行される自殺行為は、多くの人の生活を混乱させ、街そのものをも混乱させるというだけでない。私はどことなく、時間そのものが止まっているようにも感じた。