この世の地獄感


 そういえば、二〇一七年の四月、市役所で国民健康保険への加入手続きをしていたとき、七〇歳くらいの男が、大声でわめき散らしていた。年金だろうか役所で手続きをすれば、何らかのかたちで得ることのできるはずの金が支給されていない、そのことに怒っているようだ。だが、男の発する声は、誰か具体的な人、たとえば窓口にいる市役所の職員に、面と向かって向けられているのではない。待合室のベンチに腰掛けたまま男はわめいている。その視線は、この人が頭のなかにこしらえあげた敵のような存在に向けられているようで、だから眼力は強いが何かを受けとめる余力はそこになく、ゆえに空虚である。たしかに、年金が段階的にカットされていく−−先日の報道では、七五歳にならないと支給されなくなると書かれていた−−と言われている。ということは、この人は、以前であればもらえると言われ、もらえると信じていた金が知らぬ間にもらえなくなって、それに対して憤り、市役所に乗り込んで、ベンチに座って喚き散らすという孤独きわまりなき抗議行動に打って出たのだと考えることもできる。

大森靖子の歌について

 
 大森靖子の「TOKYO BLACK HALL」は、二〇一六年三月に発売されたアルバムに収録されている。この曲を聴いていて印象的なのは、「地獄、地獄、見晴らしのよい地獄」のフレーズである。あきらかに、この世の空気感を素直にとらえて歌にしたら「地獄」の歌詞が出てきてしまうのは、やはり大森が、この世に何か地獄めいたものを感じてしまっているからだろうと繰り返し聞きつつ私は考えたのだが、もしかしたら、私のほうこそ今の世間を地獄と感じ、そのどうしようもない地獄感を抱きつつもどうにもならず身動きできないから、「地獄」のフレーズに過剰なまでに反応し、それを歌詞にしてしまう大森とは何なのかと考えてしまうのかもしれない。

未来学前史


科学技術が人間社会を変える。東が指摘するように、かつて日本では、未来学のもとで語られてきた展望。

小松左京の『未来の思想』(1967年)。『日本タイムトラベル』(1969年)。大阪万博(1970年)。この後、未来の思想は潰える。進歩主義の失墜。

東が述べていないこと。未来学は、京大界隈の学者(梅棹、加藤秀俊など)だけでなく、建築のメタボリズム運動と連動していた。黒川紀章、浅田孝、川添登

東浩紀のサイバースペース批判を今読み直す


 東浩紀は、電子メディアがつくりだすものを「サイバースペース」というように空間的なものとして考えることに批判的である。

 

彼の問題関心は「サイバースペースの観念が、現実のメディア環境の変化を認めつつ、かつ同時に否認する一種の自己矛盾を抱えているように思われた」という一文に集約されている。メディア環境で起きている、「ネットワーク化」「インターフェイス化」が、象徴界の弱体化(大きな物語の失墜)と不気味なものへの感情移入と対応しているというのが、東の仮説である。

 

サイバースペーの観念は、透明で理性的なコミュニケーションが一次元的に繰り広げられる情報空間を指し示すものであるが、透明性と理性が優位な状況では、メディア環境が現実において生じさせている不気味なものとしかいいようのないものの余地が消されてしまう。

 

これが何かということについて、東の議論は必ずしも明瞭ではないが、少なくとも、透明性と理性だけではコントロールできないものが生じてしまうことを指摘した点では、東の議論は重要であったといえないか。

マクルーハンとの違い


 これまでにも、情報通信技術が新しい現実をつくりだすということは、しきりに議論されてきた。東浩紀が述べているように、電子メディアそのものが新しい空間世界をつくりだすと主張したのは、マーシャル・マクルーハンだった。電子メディアの延長上に「地球村【グローバル・ヴィレッジ★強調】」が実現すると予想したマクルーハンは、「『村』の場となるのは【メディアそのもの★強調】、この現実=地球のうえに(ラジオやテレビ等を通じ)薄く皮膜のように覆いかぶさった情報のネットワークだとも主張しているように見える」と東は述べている(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、九頁)。そしてマクルーハンは、メディアがつくりだす現実においては「単一の集団意識」が形成され、人びとがこの集団意識へとアクセスするところに地球村が生じると考えた。つまり、電子メディアがつくりだす現実は、人びとの集団意識、精神圏、精神世界の発生とともに語られてきた。
 これに対し、フロリディは、ICTがつくりだす現実をそれだけで考えるのではなく、人間の日常的な生活領域そのものへの認識とそのあり方との関連で考えようとしている。

人間の条件と『第四の革命』から


 ハンナ・アーレントは、人間を、条件づけられた存在と考えた。それはつまり、人間は自分がつくりだした人工物により条件づけられることではじめて生活できる、ということである。「この生活は必ず、人びとと人工物の世界に根ざしており、その世界を棄て去ることも超越することもない」(四三頁)。そしてアーレントは、人間はみずからの条件となる人工物としての環境を絶えず作り出していると述べている。人工世界は、一度形成された状態において定まり停止するのではなく、いつも新たにつくられていく(稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』、171−172頁を参照のこと)。
 人工世界の改変は、現代においても進行している。では私たちは、どのような改変を経験しつつあるのか。二一世紀になって、私たちは、ICTの影響のなかで生きていること、しかもその影響が、人間生活のあり方を着実に変えつつあるということに気づきつつある。ルチアーノ・フロリディは『第四の革命』で次のように述べている。

 我々は、ICTが、新しい現実を作り上げ、我々の世界とそこに住まう我々の生活の、あらゆる側面の情報的解釈を加速させているのと同じくらい、我々の世界を変更しているのである。インターフェースが次第に見えなくなるにつれて、【こちら側(アナログ、炭素ベース、オフライン)★強調】と【あちら側(デジタル、シリコンベース、オンライン)★強調】の境界は、どんどん不鮮明になっていく(五六頁)。