マクルーハンとの違い


 これまでにも、情報通信技術が新しい現実をつくりだすということは、しきりに議論されてきた。東浩紀が述べているように、電子メディアそのものが新しい空間世界をつくりだすと主張したのは、マーシャル・マクルーハンだった。電子メディアの延長上に「地球村【グローバル・ヴィレッジ★強調】」が実現すると予想したマクルーハンは、「『村』の場となるのは【メディアそのもの★強調】、この現実=地球のうえに(ラジオやテレビ等を通じ)薄く皮膜のように覆いかぶさった情報のネットワークだとも主張しているように見える」と東は述べている(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』、九頁)。そしてマクルーハンは、メディアがつくりだす現実においては「単一の集団意識」が形成され、人びとがこの集団意識へとアクセスするところに地球村が生じると考えた。つまり、電子メディアがつくりだす現実は、人びとの集団意識、精神圏、精神世界の発生とともに語られてきた。
 これに対し、フロリディは、ICTがつくりだす現実をそれだけで考えるのではなく、人間の日常的な生活領域そのものへの認識とそのあり方との関連で考えようとしている。

人間の条件と『第四の革命』から


 ハンナ・アーレントは、人間を、条件づけられた存在と考えた。それはつまり、人間は自分がつくりだした人工物により条件づけられることではじめて生活できる、ということである。「この生活は必ず、人びとと人工物の世界に根ざしており、その世界を棄て去ることも超越することもない」(四三頁)。そしてアーレントは、人間はみずからの条件となる人工物としての環境を絶えず作り出していると述べている。人工世界は、一度形成された状態において定まり停止するのではなく、いつも新たにつくられていく(稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』、171−172頁を参照のこと)。
 人工世界の改変は、現代においても進行している。では私たちは、どのような改変を経験しつつあるのか。二一世紀になって、私たちは、ICTの影響のなかで生きていること、しかもその影響が、人間生活のあり方を着実に変えつつあるということに気づきつつある。ルチアーノ・フロリディは『第四の革命』で次のように述べている。

 我々は、ICTが、新しい現実を作り上げ、我々の世界とそこに住まう我々の生活の、あらゆる側面の情報的解釈を加速させているのと同じくらい、我々の世界を変更しているのである。インターフェースが次第に見えなくなるにつれて、【こちら側(アナログ、炭素ベース、オフライン)★強調】と【あちら側(デジタル、シリコンベース、オンライン)★強調】の境界は、どんどん不鮮明になっていく(五六頁)。